蛇口の虹

それはギザギザハートのわくわくだ!

灰色

 

とんでもない曇り空の日、海を見ると、地平線がぼんやりとしていて空と海の境界線が曖昧になっていたりする。どこまでも空でどこまでも海に見える。海面が灰色の空をそのまんま映していて、視界一面が灰色になる。

晴れた日の海ももちろん好きだけど、こんな具合の悪そうな海の景色も好きだ。

 

 

この時期の生ぬるい外の空気も好きだ。

何となくあったかい、少し湿気ているこの空気とパッとしない天気。何故かわかんないけど、こんな日に外を歩くと、生きていることを実感する。その辺の公園で散歩して、子供がサッカーをしている光景を見るだけで涙が出そうになったり。歳をとっただけなのかも。

 

昔はこういうことをよく感じたり、言葉にしたり、誰かとこういう感傷的な話をするのが好きだったな〜って、小さく自分の穴を掘り返して、まだあの頃と変わらない好きだった自分の名残を感じてよしよしして、すぐ埋める。

 

忙しい退屈

 

お題「気分転換」

 

またまたお題を借りた。

 

仕事で画面を見て、ご飯食べている時はYouTube見て、ソファでだらつきながらTikTokを見て、たまに友達とゲームして、気になっていた映画が配信されているのを知って飛ばしながらNetflixで見る。隙間にLINEのチェックも欠かしていないのに、足早に過ぎていくひとつひとつが軽いせいで、一年ぶりの友人からの連絡でさえも、なんでもない日常のただの通知音に感じてしまった。

『明けましておめでとう!今年は会えるといいな』

こんな悲しいことがあるだろうか。

 

まあいいや、が増えてきて生きやすくはなった。同時になにかを考えることも少なくなった。体を動かすこともせず、目に色んな映像が濁流のように流れていくだけの時間がかなり増えた。

 

こんな退屈だったけな?そんなはずなかったよな。やりたいこと、たくさんあったはずなのに。

人と話すのも億劫で、好きになることも嫌いになることもなく、まあそんなもんだよなが増えている。すごく辛いことがなくなった。

なんだか最近、人生が、生きることが、退屈で退屈で死んでしまいたいような、いやもう死んでいるような気持ちだった。

何にも価値のない、こんな退屈しか感じることができない自分に、なのに何にも動かない自分に、どうしようもなく疲れていた。おかしな話だけど、本当に自分が自分であることに疲れていた。

 

原因はたくさんある。自分のせいなのを痛感していて、余計にやるせなくなっていた。原因であろう過去の出来事たちを振り返る覚悟もなかった。だけど、一回だけほんの少し勇気を出して、苦い思い出たちをつついてみようとした。そして『今のわたしのダメなところを変えるように努力する』とか考えてみたけれど、ちょっと振り返っただけで頭と心と体が一気にずしんと重たくなった。『それ以上進むともっと辛いよ。底なし沼とわかっているところに自分から入るのはどうなんでしょう』というわたしに甘いわたしが警告してきたので、素直に従った。

 

『みんなも毎日退屈だよ。なんとか折り合いつけてるだけだよ』っていう声も聞こえた。そうだよな。そんなもんなのか?うん、そんなもんだよ。

 

 

 

 

 

 

そんな風に前に進もうともせず目の前の現状にたらたら文句だけ言って退屈そうにしていた私を、ある日、彼氏が遠出しよう、と連れ出してくれた。

 

特に場所を決めていなかったみたいで、私が適当に車のナビの地図をぴこぴこと触っていたら、伊豆の端っこの海沿いに『灯台』の文字を見つけた。なんとなく目が止まって、まあなんかこういう時にソレっぽいとこ行くもんだよな、と勝手に目的地に設定した。目的地まで3時間、と出た。(流石にギョッとしたけど、彼氏は「おっけ〜」と緩い返事で文句も言わず運転し始めた。わたしはこの人の寛大さもありがたさも、最近かなり忘れていた。いや忘れていたというか、薄れていたけど、今文章にしていて強烈に胸を打たれている。)

 

 

 

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静かな海だった。

風も波も、匂いまでも穏やかだった。

私がなんとなく浮かべていた「ソレっぽい景色」なんてクソだったと思い知らされた。

『こんなの、世界を愛してしまう』

口には出さなかった。きっと口にしたのは綺麗だねとか、静かだね、だとかだったと思うけど、心の中でこの感情でいっぱいだった。すごく大袈裟で、こんな言葉使うのは恥ずかしい。そう思うけど、本当の本当に、ただこれだけを感じていた。昔の人たちが短歌や詩を詠むのはそりゃ仕方ねえなと思ったし、きっとこれからも人は詠みつづけるだろうなとも思った。学習が進んでいく人工知能も、どうせならこの感情も感じてくれないだろうか。この気持ちの詩を詠んでくれ。人間が滅んでも、どうかこの世界を愛してほしいな。

そんなことさえ考えてしまった。

 

 

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水仙が咲き乱れていた丘の上に灯台はあった。

さっきの静かな海よりも心は動かされなかったのは、ここにたどり着くまでの長い階段のせいだったと思う。

 

「いい日だったね〜」

と歩き疲れて、車に乗り込むや否や、そそくさと助手席で寝る準備をしている私に、彼氏は毛布を渡しながら言った。帰りももちろん3時間の運転なのに嫌な顔ひとつしていない。

目を瞑り、彼氏が吸うタバコの匂いを感じながら、この人の寛大さを風景にすると一体どんな素晴らしい景色になるのだろうか、とソレっぽいことを思って眠りについた。いい気分転換だった。

蝉が鳴く前に帰った

 

お昼寝をしすぎたせいか、なかなか寝付けずこんな時間になっている。

 

朝の4時半ごろ、家の近くの浜辺にお散歩をしに行った。砂浜につながる階段に座って、コンビニで買ったあんまり美味しくないコーヒーを飲みながら、タバコを吸った。うっすらと朝日が登りはじめていたけど、空は曇っている。私はイヤホンを外して、波の音と名前を知らない鳥の鳴き声と、どこを走っているのかわからない船の汽笛の音に耳を委ねながら、空の色が映っている水面をじぃっと眺めたり、滑空している鳥を目でおったり、砂浜で何か探しているような動きをしてるおじさんを見ていた。海の写真を撮ってsnsにあげてみたり、俗っぽいこともした。

 

少し時間が経つと、ちらほらと朝の散歩をしている人たちが出てきた。日課でいつも散歩をしているであろうその人たちはお互いすれ違うたびに挨拶をしている。「もう折り返してきたの?今日は早いですね」「今日は寝れなかったから、夜中の3時にガスコンロの掃除をして、部屋の片付けをしてたりしてさ〜」私の背中から聞こえる会話を盗み聞きをして、「私も今日寝れなかったんですよ」と心の中で会話に混ざったりした。

わたしに話しかけてくれるおじさんやおばさんもいた。美味しそうにタバコ吸ってるね、とか、この犬言うこと聞かないの、だとか、一言二言会話した。1番強烈だったのは腰にラジオのようなものを巻きつけて、そこからマリア様の呼吸法だかなんだかを話しているたぶん宗教の説法を垂れ流しながら、「曇りなのに暑い!」と私に吐き捨て、真横でヨガを始めたおばあちゃんがいた。そのおばちゃんをみて、何となく潮時かなと思って、家に帰った。

ちょっと夜明けに海に来ただけで、こんな面白い人たちの日常を覗き見できて嬉しい。なぜかすこし自分が特別になった気がした。

ちょうど家に着いたら、蝉が鳴き始めた。

いい日だったなぁとこのままぐっすり眠りにつきたいけど、残念ながら今日は今から始まる。なんだか妙に落ち着かないまま、とりあえず深呼吸をした。はあ、マリア様の呼吸法きいとけばよかったな。

 

午前四時

 

200日前に書いた記事の内容を鮮明に覚えていて、気恥ずかしくなって早速書くのをやめていたけど、前の会社の同期がブログを教えてくれたので、また私も書きたくなった。

 

その同期のブログを読んだ。お酒を飲んだようにテンションが高かった。とても良かった。

 

 

最近といえば、数年前に仲が良かった人たちとゲームをきっかけにまた連絡をグループラインで取り合うようになった。

まとも、とは言い難い人間ばかりだけど、すごく波長が合う。心地がいい。私というものを理解して欲しいように理解してくれているような気がする。

その人たちと眠れない夜中に昔話をしていた。当時の私がどんな風だったか例えてくれた。すごく嬉しかった。どういう例えだったのかを書くと、また気恥ずかしくなって次の記事を書くのが遠ざかるのが目に見えているので、やめておく。きっと自分が読み返した時、なんて例えてくれたか思い出すからそれでいっか。

 

 

 

 

 

 

 

今日はスーパーの帰り道に川の写真を撮った。霧が出ていた。

霧といえば、前住んでいた家の近くの公園から見える夜景が綺麗で好きだった。

特に霧が出ている日の薄暗い時は全ての光がぼやぼやと曖昧で、それを見るとなんだか安心した。私はその景色をとっても愛していた。

霧といえば、もうひとつ。去年、乗るはずだった飛行機が霧が濃くて欠航になった。

見渡す限り全てが灰色で、何も見えなかった。私が好きそうな景色だったのに、飛行機に乗れなかったせいだろうけど、心底がっかりした。そして急遽フェリーに21時間揺られた。ネットも繋がらない環境だったから、私は舷窓をスケッチした。乗る直前にダイソーで買った百均のスケッチブックと短い色鉛筆で。酷いものだった。それでも、海は霞みながらも煌めいていた。数時間前の心境とはまるで正反対に、私の心はわくわくして、この景色をそのままそっくり持って帰れたらどんなにいいだろうかと考えていた。

 

そして今日、撮った霧。いつもだったら橋から見えるはずの川をことごとく覆っていた。

私はその霧を見て、そういえばロンドンは『霧の街』と呼ばれていることを思い出した。

心はどんよりもせず煌めきもせず、もちろん愛すこともなく、本当にそれをただ思い出しただけに終わった。

 

 

 

 

あ 

 

何年か前、まだガラケーが主流で『デコログ』というブログが私たちの周りで流行っていた。

私もそれをやっていたが同級生たちと交流していたデコログとは別に、毎日描いた絵を載せる用のブログをデコログでつくっていた。もちろん、誰にも教えていない。

当時はまっていたアニメの絵を描いてはそのデコログを投稿していた。どうせ誰も見ないだろうと好き放題に描いて書いていた。予想とは裏腹に2日目にはコメントが数件来ていた。それをいいことに毎日欠かさず投稿していた。ペンタブもなく、そのへんで買ったスケッチブックにボールペン。今よりずっと画質の悪い携帯の写真。何より上手くない絵。惹きつけるような要素は一切ない。決して上手くはない絵だったが、ずっと同じキャラクターを描いていたので、数日経つとさすがに少しずつは上達していた。多分。

「毎日見てる。絵が上手くなっていってる」

ある日、こんな感じのコメントが来ていた。多分、相手は大人だったとおもう。なぜか私はこのコメントを見て泣いてしまったのだが、何をその時感じたのかはよく思い出せない。子供の成長を見守るようなあたたかさ感じたのだろうか。素直に褒められたのが嬉しかったのだろうか。よく分からないが、そのコメントを読んでから、私は投稿をやめてしまった。なんでだろうと考えているうちに、本当にこんな出来事があったのかさえ自信がなくなってきた。

 

 

ちょうどスマホのアラームが鳴った。

チェーホフの小説の一節に「他人の生活に食い込み、生きるということが、それの一体どこが清らかなことでしょうか」というものがある。全くその通りだ。私の想像する愛はお互いを干渉し、落とし込み、生活に食い込み合う。どろどろにお互いを溶かして、周りから消えていくことだ。愛と清らかさは程遠いところに存在していると思っている。

いろんな愛の形があるんだろうけど、きっとどうせそんなもんだと願う。どうかそうであってほしい。あの日感じたあたたかさも愛なんかじゃない。